みなさまこんにちは。
闘病記もついに10話の大台😲
ここまで読んでくれている方、
本当にありがとうございます。
初めて読む人もありがとうございます。
さてこの闘病記はシリーズなので、1話から読みたいと思った方はこちらから☟
では今回も目次から
超簡単なこれまでの振り返り
※ちゃんと知りたい方は過去話を読んでくださいね。
※シリーズも長くなってきたので簡潔に箇条書き!
時は世紀末・・・じゃなかった高校1年生
・人生ずっと健康&スポーツ得意で進学校S高校に入学
・ボクシング部で入部(S高校を選んだ理由)
・尻に穴が開く『痔瘻』発生
・難病である【クローン病】と診断
・高校1年の夏休みに検査入院
・検査入院直後に多量下血で緊急手術(人生初手術)
・『人工肛門』を増設され、《オスメイト(人工肛門をつけた人》になる
・術後しばらくで【腸閉塞】発症で再手術
・術後に自らトラブルを起こす・・・
→【突発性難聴】発症。→《聴覚障害者》となる
・入院生活終了は11月。『補聴器』を購入し高校生活に戻る。
・《オスメイト》&《聴覚障害》での高校生活で問題色々発生
・高校1年の冬休みに謎の腰痛発生
・何度も整形外科に通いようやく原因・病名発覚
→【化膿性椎体炎・椎間板炎】にて緊急入院
・・・箇条書きなのに多かった・・・
エピソード⑩~壮絶な整形外科の治療~
私の腰の状態は?
(この項は闘病記というより解説っぽくなりました)
整形外科受診3回目にしてようやく
【化膿性椎体炎・椎間板炎】と診断された私。
緊急入院で下された最初の支持は、
「ベッドは15度までしか起こしてはいけません」でした。
化膿性椎体炎ってどんな病気だろう?ってのはこちらを
☟※化膿性脊椎炎とも言います。
私の進行状況は、と言うと
痛すぎて歩けなかったのは確かですが、下半身に麻痺があったかどうかまではわかりません。
ただ、病変は椎間板・2個の脊椎まで広がっているのでまあまあ進行していたみたい。
なので「ベッド15度までしか起こしてはだめ」との指示だったのでしょう。
進行していくと「多臓器不全など敗血症の症状を呈する場合もあります」と書かれているので、
あやうく死ぬところだったかもですね(*´Д`)笑えない
ベッド15度までの入院生活(思春期の崩壊w)
(この項も闘病記というよりは解説です)
まず『15度』ってどんなものか分かりますか?
ちなみに30度はこれです👇
15度の画像は探してもネット上にはなかったのですが、
これの半分だけ背上げした状態です。
つまり、、、分かりましたね。そう、ほぼ真っすぐ!
ほとんど体を起こせない生活です。
実際どうだったかと言うと、
・ベッドに24時間でどこにも行けない
テレビ見るくらいしかやることない(当時はガラケー)
・ごはんは横向きで食べる(慣れれば何とかなる)
・オシッコは尿瓶(思春期の崩壊)
・ウ○コ→人工肛門(ストーマ)なので中身を看護師さんに抜いてもらう。
(お尻から出すのに比べれば羞恥心は少ないものの、思春期の崩壊その2)
・お風呂は入れないので体を拭いてもらうだけ。
(プチ思春期の崩壊)
3つ目のウ○コは、『ストーマでよかったー』と思いますね。
パウチに便が貯まったら看護師さんに
「パウチいっぱいなので捨ててほしいのですが」とお願いする感じなのですが、
もしもストーマじゃなかったら・・・と思うと。
たぶん、こうなってたろうなってのが
・便意をもよおす
→看護師を呼ぶ
→ベッドの上でお尻の下に簡易便器(ちり取りみたいな形)を挟んでもらう
→カーテン閉めてもらって、そのままウ○コする。
→看護師さんにトイレに捨ててきてもらう。
って流れです。。。
マジで思春期がぶっ壊れますね・・・😢
(実はこれも後に体験するのですが、それはまた別のお話し)
化膿性椎体炎の激痛治療その①
(ここから闘病記)
入院後、
『これで痛みともおさらばかな・・・。』
と思い安心していました。
元々、横になっていれば痛みは和らいでいたので、
入院時の指示「ベッド起こすのは15度まで」での生活は、
前の項で説明した通り、横になったままだったので生活の中で痛みが強くなることはほぼありませんでした。
しかし安心していたのもつかの間。
医師から治療方法の説明が・・・
「点滴で抗生物質を入れて菌を殺していくのだけど・・・」
「患部がかなり進行しているので、直接その部位に洗浄液を流して、
洗いながら治療していきたい。」
私『ほうほう・・・なるほど・・・?』
(よく分かってませんでしたw)
医師「では、まず洗浄液を流す管を刺しますね』
私『・・・(刺す!?)』
そしてストレッチャーでレントゲン室に運ばれる私・・・
何をされるのか、簡単に言うと
患部である背骨の位置の、左・右の背中を切開しそれぞれにカテーテルを刺す。
→片方のカテーテルから洗浄液を流して、反対側のカテーテルで吸い出す。
という治療をするとのこと。
まずカテーテルを背中に2本(左と右)刺すところから。
ちゃんと患部にカテーテルが到達したか確認のためにレントゲンを撮りながら刺す深さや位置を調整するのでした。
レントゲン室にて、
医師「局所麻酔しますね」
私『全身麻酔じゃないんですね・・・?』
医師「間違って脊髄(神経)傷つけたら障害が残るでしょ?」
「脊髄に刺さってないかご自分で確認してもらわないといけないので」
「脊髄に触れたら、足に痛みが走るので、その時はすぐに教えてください」
私『はい・・・(何か怖いこと言われたよね😨)』
医師「それではまず切開しますね」
・・・
私『(局所麻酔なので切ってる感覚があって怖い😢)』
・・・
医師「ではカテーテル1本目刺していきますよー」
・・・
私『(い、痛え!!局所じゃ中まで効いてないやん!)』
『痛い、痛い、痛い・・・(*´Д`)』
医師「足に響く痛みですか??」
私『た、たぶん違う・・・(痛すぎてよくわからんけど)』
医師「では続けますね」
・・・
私『いたーい!!!(こ、これかー、脊髄って!)』
『足に・・・足に来るやつきました!』
医師「あ、わかりました。では少し引いて位置変えますね」
私『(うう・・・、刺したり少し抜いたり、全部痛い・・・。地獄かしら😢)』
・
・
・
とこんな感じで左右2本のカテーテルを刺されました。
途中、脊髄に触って刺しなおしたり、
またはレントゲンで確認したら位置が患部とズレてて入れなおしたり・・・
ぶっとい針とカテーテルでグリグリされる痛みに何度も耐えなくてはなりませんでした。
医師「これで今日は終わりです。カテーテル刺し終わった確認で、薬液も一回流したけどちゃんと流れたのでOKです。明日からまた1日1回この管に洗浄液を流す治療をしていきます。」
私『・・・(放心状態)わかりました。』
『(ずっと痛すぎて気付かんかったけど、一回洗浄したのね。)』
『やっと終わった・・・これで安心。』
と、痛すぎるカテーテル治療(刺すところ)が終わり安心しました。
明日からは毎日洗浄する、とのことだけど、カテーテルはもう刺さっているし、
あとは点滴に薬流すような感じ(無痛)だろう・・・と思っていました・・・。
化膿性椎体炎の激痛治療その②
激痛だったカテーテルを刺す処置から1夜明け、
あとはゆっくりと完治を待つ感じかなーと安心しきっていました。
そして1日1回の患部の洗浄の時間になりました。
医師「それじゃあこれから流しますねー。うつぶせになって。」
「痛いけど頑張ってね。」
私『(え??痛い!?)は、はい。』
・
・
・
私『い、いだーーーーい』
まさかの超激痛!
例えるならば[象に背骨を砕かれるような痛み(だと思う)]が襲います。
背中に洗浄液が流れるにつれて、強い圧迫感と激痛により息ができない⚡
痛すぎて本気で叫んでいたので、病棟中に私の叫び声が響いていました。
・
・
・
医師「終わりました。頑張りましたね」
私『はあ、はあ、はあ(呼吸困難)』
医師「また明日も頑張りましょう!」
私『・・・はい(涙)』
この治療時間は5分程度だったそうですが、
私自身には30分にも1時間にも感じるものでした。
とこんな感じで、
毎日1回だけですが、
私の叫び声が病棟に木魂する治療が続けられました・・・。
入院生活のつかの間と告げられるさらなる絶望
つらい激痛治療の日々でしたが、
この治療の時間以外はのどかでした。
それに看護師さんにはとても助けられました。
この時の病棟には20代の看護師は1人いるくらいであとは30代以上でした。
(若い人少なめ、だから色々な羞恥心に耐えられた(?)のかも)
私の担当は、
私が高校生というのも考慮されたのか唯一の20代の看護師Oさん。
副担当によく顔を出してくれた30歳くらいの看護師Kさん。
このお二人はよく空き時間に来てくれて、世間話などしていました。
ベッドから離れることができない治療だったので、人との接触がほぼない寂しい生活だったので、とてもありがたかったのです。
Oさんはよく愚痴を言いに来るしwww
Kさんは「内緒ね」といいつつ缶コーヒーを差し入れしてくれたり、
勤務時間後に、私はベッドから動けないので、ベッドごと押して屋上まで連れて行ってくれたりしました。
Kさん、か細い看護師さんでしたがここまでしてくれたことに感謝しています😢
(そんな経験が私が今理学療法士をしていることに繋がっていたりします。)
それから薬剤師さん。
当時若めの男の方でしたが、
「小田和正好きなんやよね?」
ベッドに薬を持ってきた時にとCDをプレゼントしてくれました。
そんなこともあったので、
『入院生活ってシンドイことだけじゃないなー』
と、この時の入院では感じて過ごしていました。
実際、痛い治療以外はとても居心地が良かったです。
・・・
毎日の激痛治療と、それ以外は、ベッドから動けないながらものどかな入院生活を過ごして2・3週間経ったころでしょうか。
2月終わりか3月のある日でした。
医師から衝撃の言葉・・・
「この治療続けてきたけど、、、、」
「このまま続けても完治しないね。手術が必要だ」
と。
そして、
「手術だけど、背骨だけじゃなく、もしかしたら脊髄も感染が広がっているかもしれない。なのでこの病院の体制では万が一の場合に対応できないかもしれないので、大学病院に紹介するよ」
と。
まさかの、
この頑張って続けてきた激痛治療ではダメだったとのこと😢
手術で、しかも万が一がある、と。
入院している病院は「県立病院」なので県内屈指の大病院、
それでも「国立の大学病院」への転院ということです。
体制が「県内2番目」の病院から、「県内1番」の病院へ紹介ってことなので、
『(ん?もしかして、ヤバい?)』
かなりヤバめな状態だということが私にもわかりました。
・・・
私の病状は、
県内でも隙がない体制と思われた県立病院ですら手を出せない状態(かもしれない)だったと言うまさかの急展開。
次回は大学病院編・・・かな。
気になる方はお楽しみに!
エピソード⑩まとめ
・化膿性椎体炎での入院生活スタート
・ベッドで体をほとんど起こせない
・思春期には厳しいベッド上生活
・激痛続きの治療
・病棟の皆さんのおかげて楽しく過ごせていた
・激痛治療に耐え続けたにもかかわらず完治せず
・大学病院への転院を勧められる
次回予告?
国立の大学病院への転院を告げられた私
寝たきりのまま運ばれることに・・・
手術を前に、
新たな病院環境は思春期の高校生にはさらに厳しいものだった?
次回、
エピソード⑪~崩壊する思春期の羞恥心~
お楽しみに!
読んでくださっている皆さまへ
いつも読んでくださりありがとうございます。
この闘病記は20年も前の出来事ですが、私自身の完全ノンフィクションです。
色々な病気が発病したのは高校1年から。
中学生までは、スポーツでも学校でもとにかく中心にいた、
とても頑丈で万能?な少年でした。
当時を知る人は、まさか私がこんなことになるとは思っていなかったでしょう。
ですが、こんなにも波乱が起きたのです。
大きな病気は突然襲ってきます。
身体障害もそうです。
そうなった人はみんな思います。
『なんで私が?』と。
逆に言えば、
今これを読んでいるあなたも、その家族も、
もしかしたら近々?急に明日?病気になったり障害を負う可能性があるのです。
私の闘病記は主観で申し訳ないけども、
実際病気になった人はどんな感じなのか、どう思っているのか、
そんなことを読みながら感じてもらったり、
あなたの周りの病気を持つ人の気持ちや、経験を理解する一助になればと思っています。
ちなみに私は今をとても楽しく生きてます😊
次回予告で書きましたが、
次回はちょっと病気そのものというより、入院生活ってこんなことが起きるんだーみたいな脇道エピソードになるかも、です(まだわかりませんが)。
たぶん、面白い話かも・・・。
では、次回お会いしましょう。